きょうの寝言
dum spiro, spero. - 生きている限り希望がある。
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オラニエ公(0)
最近ずっとオランダ漬け。(*'-')
なので、またしてもネーデルラント関連です。

オラニエ公の話、番外編。
本編も何もないのに、いきなり番外編からというのもちょっとどうかとは思うけど、
まあ細かいことは気にしない気にしない。ヽ(´ー`)ノ


誰も読まない前提で長文書いてるから、例によって内容の保証はなし。
自分で調べたまとめの単なるメモ書きに近いわけで。
いろんな文献漁って、事柄を並べただけ。文学性ゼロ。
文献によって違う記述の場合は、複数比較して自分が納得したものを選択しているだけ。
必ずしも正解・事実・真実を選択しているとは限らない。
一応だいたいは内容を消化して自分の言葉で書いているつもりだけど、
例えれば授業のノート取ってるような感じでもあるから、
参考文献の表現に近いのも混じっているかもしれない。
参考文献の一覧を載せないのは、これが責任を負わない文章だから。
万が一にも転載しようなどと考える人はいないだろうけど、
あくまで自己責任で。
権利は放棄しないけど、責任は負わない。
こういう無責任な公開法がいいとは思わないけどね。


ま、それはそれとして。
学生時代にこんな感じで誰に強制されるでもなくちゃんと勉強してればなー、と
思わず遠い目になってしまうのでありました。(´・ω・`)




オランジュ公ルネ・シャロン

ルネ・ド・シャロン (1519/02/05 - 1544/07/15)
René de Châlon, Prince d'Orange, Graaf van Nassau, Heer van Breda
ルネ・ド・シャロンは、ブレダ Breda (現ネーデルラント南部、ノールト=ブラバント州 Noord-Brabant )の人。 ナッサウ伯ヘンドリク3世 Hendrik III の嫡男である。 本来ならレイナールト Reynaert van Nassau と呼ばれているはずだが、オランダ語の文献でもルネ René で伝えられているものが多い。 レイナールトがオランダ語、ルネはフランス式の呼び名である。
名前は、特に欧州では、その時その時に使う言語に応じて言い換えられるもの (例: 【仏】シャルル Charles / 【英】チャールズ Charles / 【独】カール Karl / 【蘭】カレル Karel / 【西】カルロス Carlos / 【羅】カロルス Carolus 、など) であるし、当時のネーデルラント貴族の公用語はフランス語であったから、フランス名であっても別に不思議はない。 しかし、ルネの場合は常にフランス式を用いていた。 しかも、 René de Nassau とは言わずに、婿入りや養子でもないのに姓も母方のシャロン姓 de Châlon で公式に通していた。 ドイツ貴族の流れを汲みながら、フランス語名で伝わっているのにはそれなりの理由がある。
ナッサウ伯 Graf von Nassau (独) / Graaf van Nassau (蘭)
ナッサウ伯家は現ドイツ中西部を所領としていた、12世紀頃から続くドイツ貴族の名門。 有力貴族との婚姻を重ねて勢力を拡大し、15世紀頃にはその所領はネーデルラント地方にまで広範囲に跨っていた。 ナッサウ伯はブルゴーニュ公に重用され、ブルゴーニュ公の版図であったネーデルラント地方でも一目置かれる存在となった。
ブルゴーニュ公 Duc de Bourgogne
ナッサウ伯の宗主ブルゴーニュ公家は、当時のフランス王家ヴァロワ家の出で、フランス東南部の本領の他にも飛び地の所領を多く有している名家だったが、1477年、シャルル“突進公” Charles le Téméraire の戦死で断絶した。
ブルゴーニュの本領はヴァロワ家に接収されてフランス王の直轄領に編入され、飛び地のネーデルラント地方にはシャルル“突進公”の娘マリーが嫁いでいたハプスブルク家が進出した。 ブルゴーニュ公位はマリーが女公として継承し、夫マクシミリアン1世(神聖ローマ皇帝)と共治という形を採ったが、マリーは1482年に世を去り、その後はハプスブルク家が保持し続けた。 このためナッサウ伯家はハプスブルク家に仕えるようになった。
ナッサウ伯領の東西分割
1475年にナッサウ伯ヨーハン4世 Johann IV が薨じ、ナッサウ伯領はライン川を挟んで分割された。 ヨーハン4世の2人の息子、エンゲルベルト2世 Engelbert II (【蘭】エンゲルブレヒト2世 Engelbrecht II )とヨーハン5世 Johann V がそれぞれライン川の左岸(西岸)、右岸(東岸)の領地を相続した。
ナッサウ伯・アントヴェルペン城伯エンゲルブレヒト2世には後継がいなかったので、次の代ではディレンブルク=ディーツ伯ヨーハン5世の息子2人がライン東西岸をそれぞれ継承した。 兄ハインリヒ3世 Heinrich III (【蘭】ヘンドリク3世)がナッサウ本家格とライン西岸のネーデルラント側領地を継いでブレダに移り、弟ヴィルヘルム1世 Wilhelm I がライン東岸側を相続してディレンブルク Dillenburg (現ドイツ中部、ヘッセン州 Hessen )でナッサウ旧領を治めた。
オランジュ公 Prince d'Orange
ヘンドリク3世は3度結婚したが、息子は2番目の妻クロード・ド・シャロン Claude de Châlon との間に生まれたルネただ1人だけだった。
クロードの出身シャロン家は名家で、オランジュ公の家柄であった。 オランジュ Orange とはフランス語で、英語のオレンジ Orange にあたる。オランダ語ではオラニエ Oranje となる。 柑橘類のオレンジやオレンジ色の意味もあるが、ここでは南フランスの地名に由来する。 オランジュ公領は、マルセイユから北西、モンペリエから北東それぞれ約100kmに位置している。
当時クロードの弟フィリベール Philibert がシャロン家当主であったが、1528年から神聖ローマ皇帝カール5世の命でナポリ副王も兼ねており、帝国軍を率いてイタリア戦争に介入していた。 1530年のフィレンツェ包囲戦は特に苛烈凄惨を極め、激戦の末、最終的に帝国軍は勝利を得たものの、フィリベール自身も帰らぬ人となった。 フィリベールの死でシャロンの男系が断絶したため、クロードを辿ってルネがオランジュ公を継承することになった。
これがネーデルラントの「オラニエ公」、そしてオラニエ=ナッサウ家の始まりである。 しかしルネはナッサウを名乗らず母方の姓のシャロンで通したため、「オラニエ公」とオラニエ=ナッサウ家の開祖は次のヴィレム1世からと扱われることが多い。
1538年にはヘンドリク3世が亡くなり、ルネはナッサウの名跡とともにナッサウ伯、ブレダ男爵など父の爵位とその所領も受け継いだ。
Je maintiendrai
ルネは「私はシャロンで通す Je maintiendrai Châlons 」として、母方のシャロン家、オランジュ公を継ぐ者として振舞った。 これは、オランジュ公継承に際して、シャロンを絶やしたくないという母クロードの強い意向も確かに理由の一つとしてはあった。 しかし、ナッサウ「伯」よりオランジュ「公」の方が格が圧倒的に上であるから、ナッサウとしてオランジュ公を継がずにシャロンを名乗ることは、格を重んじる貴族としても不自然な選択ではなかった。
この場合のフランス語 je maintiendrai すなわち英語で I WILL maintain は、「~を堅持する、維持する」という表向きの意味と共に、「誰が何と言おうと」的な強い意志を含んだ主張の意図で用いられている。 「(確かに男系の血筋として見ればナッサウかも知れないが)自分はシャロンの家名を守るのだ」という表明であった。
次のオラニエ公ヴィレム1世はそのルネの言葉を踏まえて、「私はナッサウを守っていこう Je maintiendrai Nassau 」と宣言し、ナッサウ家として行動することを選んだ。 自分のナッサウの血を否定してまでフランス風のオランジュ公 Prince d'Orange となるのではなく、ネーデルラントに生きるオラニエ公 Prins van Oranje となる、ということであった。
美徳と気高い精神を常に持ち、神、王、友人や自分自身の名誉と信頼、そして法を守り抜く決意を込めて表現したものだ、と後にヴィレム1世本人が書簡の中に書き記している。
JE MAINTIENDRAI は現在ではネーデルラントの標語として国章などに刻まれている。
金羊毛騎士団 L'Ordre de la Toison d'Or (仏)
1531年、ルネ12歳のとき、神聖ローマ皇帝カール5世の息子フェリペ(後のスペイン王フェリペ2世)やアンドレア・ドーリア Andrea Doria らと共に金羊毛騎士団に加えられる。
世俗騎士団である金羊毛騎士団は、簡単に言い切ってしまうと、ブルゴーニュ公の重臣に与えられる褒美であった。
忠誠には報いるところがなくてはならない。 しかし領地の下賜加増という形で報いようにも土地がない。 騎士団の一員に加えるということは、騎士道精神に託けて、新領地の代わりに手軽に与えられる名誉報酬であったといっていい。
スペイン、神聖ローマ帝国など他の広大な版図の一部としてブルゴーニュ公領も治めていたカール5世は、この都合のよい恩賞を乱発した。 ブルゴーニュだけでなく帝国やスペインに関係する有力貴族にも叙任したため、カール5世の時代の金羊毛騎士団は前後の時代と比較して新メンバーの追加頻度も数も際立って多い。
ネーデルラントの総督
成人してからは、カール5世の侍従としてルネは重く用いられた。
1540年にホラント総督・ゼーラント総督・ユトレヒト総督に就任。 またこの年、ロレーヌ公アントワーヌの娘アンナと結婚。一人娘マリアを授かるが、マリアは生後3週で天に召されてしまった。 ルネ夫妻はマリアをブレダのフローテ・ケルク Grote Kerk (= Great Church 大教会)の墓所に手厚く葬った。 その後、1543年にはヘルレ(ヘルデルラント)総督にも任命された。 また、対フランス戦、すなわちフランス王フランソワ1世との間の戦役にも部隊を率いて参戦した。
1544年7月14日、パリの東方約150kmのサン=ディジエ Saint-Dizier での作戦行動中に砲弾の直撃を受け、翌日息を引き取った。 その最期はカール5世が直々に看取ったという。 ルネ本人とカール5世の意向で、後継者にはナッサウ=ディレンブルク伯ヴィルヘルム1世“富裕公”の息子、ヴィルヘルムが指名された。後に“沈黙公”と呼ばれるオラニエ公ヴィレム1世となる人である。
ルネ・ド・シャロンの遺骸はブレダに移され、愛娘マリアの眠るフローテ・ケルクに埋葬された。
<爵位>
1530-1544 オランジュ公 Prince d'Orange
1531-1544 金羊毛騎士 Chevalier de la Toison d'Or
1538-1544 ナッサウ伯 Graaf van Nassau
1538-1544 フィアンデン伯 Graaf van Vianden
1538-1544 ブレダ男爵 Heer van Breda
1538-1544 デレク男爵 Heer van de Lek
<官職>
1540-1544 ホラント総督 Stadhouder van Holland
1540-1544 ゼーラント総督 Stadhouder van Zeeland
1540-1544 ユトレヒト総督 Stadhouder van Utrecht
1543-1544 ヘルレ総督 Stadhouder van Gelre


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